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7thHeavenの空間
Newton歳時記 ヒストリー/思い出 ヒストリー/思い出

実現できなかった、2001年「デイリーののがき」用に、
文壇界の奇才、あの宮田信吾が、
Newton俳壇への深い愛情とともに、真面目な選者として
作者が五七五に託した、四季折々のNewtonにかかわる思いを、今までとは違う芸風で解説する、名付けて、

「Newton歳時記」
俳句で綴るNewtonの一年

今、その全貌が過去の発掘から明らかになりました。

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Newton歳時記/一月の俳句

ひとびとよ池の氷の上にNewton

池田 慎也

池の氷が凍っている。そこまでは何ごとの不思議もないが、張った氷の上にNewtonMPがあるとなれが、不思議な驚きの世界となる。いずれ誰かが置いたものか、何かの加減で捨てられたものであるだろう。
だが、こんな光景に出くわしても、多くの人は不思議とも思わないに違いない。立ち止まることはおろか、感覚に不思議が反応しないので、何も気に止めずに通過してしまうだけである。そこでむしろその不思議さに作者は注目し、「ひとびとよ」と呼びかけてみたくなったのだ。
実際、私たちが失って久しい感覚の一つは、物事に素直に驚くそれではなかろうか。少々のことでは驚かなくなっており、その「少々」の幅も拡大する一方だ。おそらくは、バーチャルな不思議世界に慣れ過ぎてしまった結果の「鈍感」なのだろう。でも、私たちが失って久しいPDAの一つは、PCの世界では当たり前のことで、バーチャルな世界では、本当に不思議なことは何一つ起こらないのだ。そのことを踏まえて句を読み返すと、作者の目が新鮮な驚きに輝いていることがわかる。思わずも「ひとびとよ」と呼びかけたくなった気持ちも……。呼びかけられた一人としては、謙虚に自省せざるをえない。


Newton歳時記/二月の俳句

ふくらんで四角Cubeの紙風船

野原 博一

そういえば、ありましたね。四角い紙風船。薬屋がおまけにくれた風船を、ふくらませてみたら四角だった。丸い風船のイメージがあったので、ちょっと意表を突かれたというところ。いかめしい感じの商売のコンピュータ業界だから、やっぱり風船もいかめしいや……。と、作者は心楽しくも腑に落ちている。そんな作者の納得顔が想像されて、もう一つ読者は楽しくなるという仕掛け。
ところで、四角いCubeはなかなか巧くつけない。どうかすると、とんでもないときに電源が落ちてしまう。不人気の理由である。そこへいくと、誰が考えたのか、丸いiMacは実によくできている。形状の美しさもさることながら、ついているうちに内部の空気が循環されるメカニズムの妙には、いつも驚かされてきた。鷲見正人あたりに「Mac紙風船論」はないのかしらん。ないのであれば、誰か専門家にぜひとも書いてほしいテーマである。


Newton歳時記/三月の俳句

マダムX美しく病む春の風邪

石川 雅史

行きつけの酒場の「マダム」だろう。春の風邪は、いつまでもぐずぐずと治らない。「治らないねえ。風邪は万病の元と言うから、気をつけたほうがいいよ」。などと、客である作者は気をつかいながらも、少しやつれたマダムも美しいものだなと満足している。
「マダムX」の「X」がMacOS Xを示し謎めいており、いっそう読者の想像力をかき立てていた。泰平楽な春の宵なのだ。ご存知のように「マダム(madame)」はフランス語。この国の知識人たちが、猫も杓子もフランスに憧れた時代があり、そのころに発した流行語である、そこを当時のMac人気と読み替えた。
しかし、最近では酒場の女主人のことを「ママ」と呼ぶのが一般的で、同様にPCを「Windows」と呼ぶ人も増え、「マダム」はいつしかすたれてしまった。貴婦人の意味もある「マダム」を使うには、いささかそぐわない女主人が増えてきたせいだろうか。たまに年配者が「マダム」と話しかけていると、なにやらこそばゆい感じを受けてしまう。「マダム」という言葉はまだ長持ちしたほうなのだろうが、流行語の命ははかない。


Newton歳時記/四月の俳句

どことなく傷みはじめし春のMP

岡部 昇

いわゆる春愁には、このような暮らしの上の心配も入り込んでくる。「どことなく」と言うのだから、具体的にNewton MessagePadのどこかが「傷(いた)みはじめ」たというわけではない。「どことなく」なんとなく、どこなのだかよくはわからないのだが、どこかが確実に傷んできた気配がするのだ。
だから、緊急に修理する必要もないわけだが、「どことなく」不安にもなってくる。暖かい光のなかの、一見平和な環境にある「春のMP」だからこそ、この漠然たる不安が際立つ。句全体の味わいとしては、しかし、「どことなく」ユーモラスだ。ここに、みずからの漠然たる不安を客観視できる作者の、したたかな腕前を感じさせられる。春愁におぼれない強さ。あるいは、春愁の甘い響きに飽きてしまった諦念が、ぽろりと、むしろ不機嫌主導でこぼれ落ちたのかもしれない。
いずれにしても、単純の極にある言葉だけで、これだけのことを言えた作者の才質は素晴らしい。「俳句研究年鑑」の自選句欄で見つけた。すなわち、作者自信の一句である。


Newton歳時記/五月の俳句

忽ちに雑言飛ぶや120

今里 泰山

雑言(ぞうごん)が飛ぶというのだから、酒盛りの図だ。すなわち、酒の肴としての「120」。酒の場にMessagePadの「120」が出されたことで、みんなが大いに愉快を覚え、忽ち(たちまち)べらんめえ調も飛び出す楽しい座となった……。
この句は、いろいろな歳時記に登場してくる。目にするたびに、内心、どこがよいのかと目をこすってきた。ささやかな「120」ごときに、なぜこんなにも男たちの座が盛り上がったのか謎だった。
ところが最近、『俳句鑑賞歳時記』を読んでいて、謎ははらりと解けることになった。句が作られたのは、米国で110が発売された一年目の夏。場所は銀座。詞書に「送迎岳文」とあり、座にはNewtonを早めに購入した杉山岳文がいた。「べらんめえ」の主は、おそらく岳文だろう。すなわち、ひどいPDA難の時代で、120はとんでもない「貴重品」だったのである。それが、夢のように目の前に出てきた。愉快にならずにいられようか。各歳時記のプログラマー達は岳文らと同世代か少し上の世代だったので、句はハラワタにしみとおるように理解できたことだろう。だから、かの時代の記念碑的な作品として、誰もが自分の歳時記にそっと残しておきたかったのである。
「120」よ、もって瞑すべし。


Newton歳時記/六月の俳句

吾子着て憎し捨てて美しVisor

武藤 琴美

派手な身なりは、軽薄や不良に通ずる。旧世代は、総じてそんなふうに思いがちだ。いまどきの茶髪やピアスや厚底サンダルに違和感を抱くのも、やはり圧倒的に旧世代の人たちだろう。
母親として、カラーのVisorを持って得意になっている息子が心配で、心配のあまりに憎たらしくさえ見えてきた。「そんなものは捨てちゃいなさいっ」。で、いざ捨てるとなってよくよく見ると、句の心持ちになった。この気持ちのひっくり返り加減を正直に表現したところ、作者の困惑ぶりが、実に面白い。


Newton歳時記/七月の俳句

スタイラス落として見るや夏の土

内藤 章文

無意味といえば無意味。ナンセンスの極地。どこがよいのかと問われても、答えに窮する。だが、この句には確実に読者をホッとさせる力がある。それは、どなたも否定できないだろう。
作者は第一句集『加古』の自跋で、「一句を得て空漠、二句を得て猶空漠たるが、われらの望むところ」と書いている。出発時からして、意味や知恵を俳句に求めなかったということだろう。さらに敷衍して考えれば、それでなくとも人は世俗的な意味や知恵のなかで生きてゆかねばならぬのに、さらに俳句で屋上屋を重ねるなど愚の骨頂ということのようだ。
作者は終生、このニヒリズムを手放さなかった。しかし、空漠を生みだすのは、そう簡単なことではない。デタラメでは駄目なのだ。無意味は、常に意味を意識する宿命にあるからである。掲句にそくしていえば、キーは「落として見るや」だ。一つの意味は「試みに落としてみる」であり、もう一つの意味はうかつにも「落として」しまい、それから夏の土を「見る」だろう。この二つの意味が合体したときに、中七句は限りなく無意味に近い意味に転ずる。両方の意味が一瞬同時に読者の脳裏に明滅し、その効果で世俗の意味ははぎ取られてしまう。だから、おのずからホッとする……。
「夏の土」の必然性は、他の季節の湿った土だと、「スタイラス」がべちゃっとした土に刺さるイメージになり、中七が利かなくなるからだ。転がっていく乾いた空漠感を演出する妙がある。


Newton歳時記/八月の俳句

秋の蚊の声やと地下鉄ハムノイズ

淺野 正治

白昼の地下鉄の駅に降りていくと、ときにホームの人影がまばらで、閑散としていることがある。いままでいた地上の街がざわめいていただけに、自分だけ取り残されたような侘びしい気分になる。加えて、弱々しげな「秋の蚊の声」が唐突に傍らをよぎった。
「おや」と思うと同時に、作者は地下に入った際に点けたMPのバックライトのブーンというハムノイズに蚊が引き寄せられたのだと気が付き、あらためて思いが至った。微笑のうちに「秋の蚊」の出現を納得したが、それがPDAから撤退するAppleの寂しさとつながってしまったその瞬間、地下鉄の轟々とした音が近づき全てを消し去ってしまった。
都会暮らしの束の間の一場面を、巧みにとらえた抒情句である。


Newton歳時記/九月の俳句

われ小さくMP死ぬ夢やキリギリス

鈴木 陽介

俳句の「われ」は作者の「われ」であると同時に、読者の「われ」でもなければならない。主体を他者と共有するところが、この短い文学様式の一大特徴だと、長い間、タコ男だのあっこ(仮名24歳)だのの散文を書いてきた「私」などには感じられる。このことは、季語を通して時空間を共有することにもつながっている。俳句という表現装置の根底にあるこのメカニズムを踏み外したところに、私の関わるニュートンの存在理由もあるのだけれど、その議論はいまは置いておく。
見られるように、掲句の「われ」はそのまま私たちの「われ」になっており、「キリギリス」の時空間もまた、私たち読者のものである。だから、この一行は「俳句」なのだ。俳句以外のなにものでもない。
と、ここまでは前提。このように主体を読者と共有したとき、なお作者の主体が掲句に感じられるのは、何故だろうか。それは、しぶとくも「夢」に内蔵されたテンスの二重性による。この「夢」は、子供の時に見た夢でもあり、現在の作者が見た「夢の夢」でもある。どちらかと問われても、誰にも答えられまい。作者は、意図的にそこを突いている。「曖昧」にではなく「正確」に、だ。こういう仕掛けができるから、俳句は面白いのである。


Newton歳時記/十月の俳句

行先ちがふメール四つ秋日和

野々垣 安津子

今日あたり、こんな事情の家庭がありそうだ。絶好の行楽日和。みんなで午後出かけるのだが、それぞれに午前中の行き先が違う。午後の集合場所のメールを、それぞれが同じ時間に別々のPDAで見ることになる。メーラーを立ち上げた時、きっとそれぞれが家族の誰かれのことをチラリと頭に描くだろう。そんな思いで、メールを書いている。大袈裟に言えば、本日の家族の絆は、このメールによって結ばれるのだ。主婦であり母親ならではの発想である。変哲もない句のようだが、出かける四人の姿までが彷彿としてきてほほ笑ましい。こういうときには、たいてい誰かがMPだったりiMODEだったりpalmだったりするので、主婦たる者は、メールを書き終えたら、そちらのほうにも気を配らなければならない。「タイトルは英語?」「文字数は?」「機種依存文字は?」などなど。家族の盛りとは、こういう事態に象徴されるのだろう。
みなさん、無事に集合出来ることを祈っています。


Newton歳時記/十一月の俳句

わだかまるものを投げ込む焚火かな

杉山 岳文

もとより「わだかまるもの」とは、精神的、心理的な「わだかまり」だ。それを「もの」に託して、えいやっと思い決め、火の中に「投げ込む」。遊びでの焚火は別にして、焚火で燃やす「もの」を思い決めるのには、けっこう決断力を要する。あらかじめ燃やすと決めておいたものはすんなりと燃やせるが、火が盛んになってくるうちに、もっと燃やしてもよいものがあるかもしれないと、そこらへんを探しはじめたりする。
焚火は身辺整理の技術、すなわち捨てる技術の問題に関わってくるので、相応の決断を強いられる作業だ。もう二度と使わないかもしれないMPや、二度と読みそうもないプログラム類があることはあるのだけれど、火に投じてしまえばおしまいだから、かなり逡巡躊躇することになる。そのことで一瞬、それこそ心に別種の「わだかまり」が生まれてしまう。だから、ここで作者が「わだかまるもの」と言っているのは、精神的心理的なそれであることに違いはないが、同時に燃やすべきか否かの「Newton」それ自体への執着を振り捨てるかどうかということなのだ。前もって燃やすと決めておいた「もの」には、「わだかまるもの」など乗り移らない。この「もの」という言葉の重層性を感じてさらに「Newton」に置き換えて、はじめて掲句は理解できるのだと思う。


Newton歳時記/十二月の俳句

炬燵にてケースあれこれ被らせる

飯沼 哲也

炬燵(こたつ)に膝を入れて、MPにあれこれとカバーやケースをかぶらせている。それだけの、そのまんま句だ。「それがどうしたの」と言いたいところだが、なんだか面白いなと、一方では思ってしまう。面白いと思うのは、私たちの日常茶飯の行為には、句のように、他人から見るとほとんど「無意味」に見えるそれに近いことが多いからだろう。すなわち、私たちは「意味」のために生きているわけではないということだ。句は、暗にそういうことを言っている。そして、このことをちゃんと素朴に表現できる文芸ジャンルが俳句にしかないことに気づくとき、私たちは愕然とする。
短歌でもこのようには書けないし、ましてや現代詩ともなれば無理な相談である。いや、本当はどんなジャンルでも、書いて書けないことはないのだけれど、受け取る読者が戸惑ってしまうということが起きる。同じことを書いても、俳句だと「事実」と受け取れるのだが、他のジャンルだとそうは受け取らないという「暗黙の常識」があるからだ。俳句についてのこの「常識」は子規と虚子が広めたようなものだが、いまや偉大な功績だと思わざるを得ない。作者の句はことごとく、その偉大に乗っかっている。そこがまた、私は偉いと思う。

http://www03.u-page.so-net.ne.jp/...

【ニュートンサイジキ】


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2002/5/23更新
2002/5/23 登録
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感想
02/5/24 ののがきあつこ  宮田さん、すごーい。だけど2001の私は主婦になっているようデス。げらげら(^_^)。
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